親戚衆が久しぶりに集まったわけだけど、お経を唱える前に、和尚さんの説法を聞く機会があったのでご紹介。
「枯木花開く(枯木死灰花開く / 枯木栄を発す)」
老人や苦境にある者が再び脚光を浴びることのたとえ。
今の自分の状態か!?と思ってしまうほど心に響くquotesだった。
どんどん便利になる世の中。便利になるまでのプロセスを理解していない若い世代は、育ってきた環境が当たり前と思って生活をするとともに、時代の変化についていけない上の世代をバカにしたり・見下したりする人たちも中にはいる。
けれど、歳をとることは必ずしも悪いことではなく、それまでに培った土壌があり、あるタイミングで若者が知らない知識が役に立つときがある。
枯れている木(=老いていること)と思われていたけれど、実はそうではなく、色々なことを吸収している時期でもあった。
これは持論だけれども、「全ての事柄には光りと陰があり」、今輝いている人は過去もしくはみんなの見ていないことろで努力や苦労をしている。(ただし、花開く時期は人それぞれで、今なのかもしれないし、これからかもしれないし、すでに開いて枯れているかもしれないけれど...。)
例えば、iPhoneなんかいい例だと思う。光の部分は、消費者の手元に届く製品は完璧で、使っていると世の中を全て知ったかのように、なんでもできてしまう。
逆に影の部分は、iPhoneが完成するまでには、開発段階の試行錯誤の繰り返しの苦労や中国の工場での労働者の努力など、数え切れないプロセスを通し世の中に出てきている。
お金を払えば手に入れるのは簡単だけど、「iPhoneと同額のお金を渡すからiPhoneを作れ」と言われても、作れるわけではない。
だから、全てのものには、光りと影がある。
そこを理解して生活するのとしないのでは大きな違いがあると思う。
「足るを知る」に繋がる話だけれども、1年に1回はキャンプをしてみるとか、非日常の生活をすることで、便利になった日々の生活を再認識することができると思う。
10年前には想像も出来なかった今日の世の中。
時には脇道に逸れて、本流の流れを遠くから眺めてみることで、「上手な流され方」に気づくことができるだろうし、視野の狭い人間になることをできる限り防いでくれるのではないだろうか。
あと、薄汚い奴らに「咲いた花」を刈り取られないように!